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  • 執筆者の写真もう中高年

ただただ、静かに向き合う「掃苔」の旅へ

更新日:2023年8月8日



掃苔(そうたい)ってご存じでしょうか?


読んで字のごとく、コケを掃くこと、転じてお墓参りという意味なんです。


歴史上の偉人や著名人のお墓をお参りして、その人の人生に想いを馳せる……。

古くは森鴎外や永井荷風らも熱心な掃苔家だったそうです。

近年では、墓マイラーなんて呼ばれたりもします。


何を隠そう、この私も掃苔家。

今回は都内いくつかのお墓をご紹介したいと思います。




なんじゃこりゃぁ!松田優作 アフロの墓


念願のハリウッド映画『ブラックレイン』の撮影中に松田優作は医師からガンを宣告されます。


「撮影を続けるか…」「撮影を中断し手術をするか…」、優作は撮影を選び、延命治療を拒否。命を削った、その鬼気迫る演技は米国で絶賛され、ロバート・デニーロも優作との共演を熱望したといわれます。


「女房には言ってくれるな」、優作は医師にそう頼み込みます。


しかし美由紀夫人は夫の異常な様子に気付き、医師のもとを訪ねることに……。

そしてガンを知らされます。夫の意を汲んだ美由紀夫人は最後まで知らないふりを通したそうです。


享年40。

お墓は東京都あきるの市の築地本願寺多摩霊園。

墓石には「無」の一文字のみが刻まれています。その周りにはキレイにカットされた樹木が、まるでジーパン刑事のアフロのように茂っていました。




確かにそこに生きている 岡本太郎 探求の人生


東京都府中市多磨霊園。

「芸術は爆発だ!」と具現するかのような墓石。


岡本太郎は20代のころ、フランス滞在中にピカソの作品と出会い、衝撃を受け、以降、抽象画を手掛けるようになったそうです。ピカソを超えること……、それが彼の目標でした。


晩年はパーキンソン病に苦しめられながらも、創作意欲は衰えず、さまざまな展示会に作品を出展。急性呼吸器不全に陥り、84年の生涯を閉じるまで活動を続けました。


圧倒的なエネルギー。

岡本太郎の作品には、ひと目見て、彼の作品だと分かるパワーがあります。


面白いねぇ、実に。オレの人生は。

だって、道がないんだ。

目の前にはいつも、何にもない。

ただ前に向かって、心身をぶつける、その瞬間、瞬間があるだけだ。




墓場に来たろう ゲゲゲのしげる 妖怪と眠る


第二次世界大戦、ニューブリテン島の戦いで水木しげるは片腕を失います。治療の傍ら、島の原住民と交流を深め、「島で暮らさないか」と誘われ、永住することも考えたとか。


ようやく復員した水木は、美術学校に通いながら、魚屋や自転車タクシーなどの職を転々としますが、どれも身につかず……。


長い長い下積み時代を経て、紙芝居から漫画となった『墓場鬼太郎』はやがて人気作に。

これが「ゲゲゲの鬼太郎」としてTVアニメ化されるや空前の妖怪ブームを巻き起こしました。


90歳を超えても、作品を発表し続けた水木しげる。


お墓は東京都調布市の覺證寺(かくしょうじ)。

墓石の左右にはねずみ男と鬼太郎が、外柵には70体以上の妖怪が彫られています。


静かな境内に、ゲゲゲの唄が聞こえてきそうですね。




それをいっちゃぁ、おしまいよ 田所康雄 役者としての人生


本名、田所康雄、またの名を渥美清。人呼んでフーテンの寅さんと発します。


「男はつらいよ」シリーズ48作目、渥美清は末期ガンに犯されていました。

医師からは「撮影は不可能」と止められていましたが、渥美は撮影を強行。監督の山田洋二も「これが最後の作品だ」と悟り、マドンナ役に仲のよかった浅丘ルリ子を配役しました。


立っていることも困難な状況、撮影の合間、渥美は愛用のカバンにじっと座っていたそうです。


実はガンの告知を受けたのはシリーズ14作目のころ。それから20年間、ひた隠しにしていましたが、決して「つらいよ」とはこぼしませんでした。


国民的スターだった渥美清ですが、その私生活は驚くほど知られていません。家庭では仕事の話を一切せず、他の演者ともプライベートでは交流しないほどの徹底ぶり。


最後に「死んでいくのは田所康雄であって、渥美清でも“寅”でもない。絶対に“寅”の墓はつくるな」という言葉を残したそうです。


お墓は東京都新宿区の源慶寺。墓石には田所康雄と刻まれています。

知らなければ通り過ぎてしまうような、そんな普通のお墓でした。


 


最後に松田優作の言葉を…。


人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ




※お墓はマナーをもってお参りください

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